ポールのソロ初来日公演
1990年3月3日、ポール・マッカートニーはソロとして初めて東京ドームで日本公演を行なった。
1966年ビートルズとして武道館公演を行なって以来、実に24年ぶり。リアルタイムでビートルズ体験がある者もない者も文字通り待ちに待った来日公演だった。
というのもポールは大麻所持により1980年に1度来日公演がキャンセルになっていたからだ。だからファンとしては公演初日を迎えるまで本当に気が気ではなかった。
80年のキャンセルになった公演では、チケット発売の前日徹夜で並んだにもかかわらず、僕は大阪フェスティバルホールの“立ち見券の整理券”しか手に入れることができなかった。
しかし、この90年の初来日公演では、4日分のアリーナ席チケットを見事ゲットし、一番良い席は3月5日の前から5列目、悪くても3月11日の前から14列目という幸運を射止めることができた。どの日だったかは忘れたが、開演前にふと後ろを振り返ると、チューリップの財津和夫さんが座っていた。芸能界でも特別ポールびいきとして知られる財津さんより前の席に一般人である自分が座っていることに、なんとなく優越感を覚えたものだ。
実は当時、1度大麻所持で逮捕されたことにより、ポールの来日は2度と実現しないだろうと言われていた。既に3度も来日公演をしている今となっては信じ難い話だが、当時のファンは皆生きている間にポールのステージを生で見ることはできないだろうと思っていたのだ。見たければ海外に行くしかない。そう思われていた時代だった。
それほどの圧倒的な絶望感の中で突然降ってわいたかのようなポールの初来日公演だった。僕からすれば、まさに生き神様の姿をひと目拝めるか、拝めないかぐらいの感覚があった。あり得ないと思っていた事が実現したのだから、その姿をひと目見るまでは絶対に死ねない。そんな感じだった。
公演の中身などは二の次だった。本当に、はっきり言ってどうでもよかった。
生きた伝説ポール・マッカートニーと同じ空間、同じ時間、同じ音楽を共有できる。ただそれだけで十分だったのだから、おめでたいといえば、おめでたい話ではある。
つまり僕にとって、ライブはポールに会うための単なる口実にすぎなかったのだ。
実際ポールの声の調子はあまりよくなかったから、正直当時のライブCDを聴こうという気にはあまりなれない。今聴いても血が熱くなるのは、オープニングを飾った「フィギュア・オブ・エイト」ぐらいのものだ。
僕はこの「世紀の来日」を記録に残さねばと思っていた。冒頭の新聞広告もそのなかの一つである。あれから15年の月日が流れた。今となっては懐かしくもあり、貴重な記録でもある。その中の一部を今後もこのブログで紹介していくつもりだ。


1966年ビートルズとして武道館公演を行なって以来、実に24年ぶり。リアルタイムでビートルズ体験がある者もない者も文字通り待ちに待った来日公演だった。
というのもポールは大麻所持により1980年に1度来日公演がキャンセルになっていたからだ。だからファンとしては公演初日を迎えるまで本当に気が気ではなかった。
80年のキャンセルになった公演では、チケット発売の前日徹夜で並んだにもかかわらず、僕は大阪フェスティバルホールの“立ち見券の整理券”しか手に入れることができなかった。
しかし、この90年の初来日公演では、4日分のアリーナ席チケットを見事ゲットし、一番良い席は3月5日の前から5列目、悪くても3月11日の前から14列目という幸運を射止めることができた。どの日だったかは忘れたが、開演前にふと後ろを振り返ると、チューリップの財津和夫さんが座っていた。芸能界でも特別ポールびいきとして知られる財津さんより前の席に一般人である自分が座っていることに、なんとなく優越感を覚えたものだ。
実は当時、1度大麻所持で逮捕されたことにより、ポールの来日は2度と実現しないだろうと言われていた。既に3度も来日公演をしている今となっては信じ難い話だが、当時のファンは皆生きている間にポールのステージを生で見ることはできないだろうと思っていたのだ。見たければ海外に行くしかない。そう思われていた時代だった。
それほどの圧倒的な絶望感の中で突然降ってわいたかのようなポールの初来日公演だった。僕からすれば、まさに生き神様の姿をひと目拝めるか、拝めないかぐらいの感覚があった。あり得ないと思っていた事が実現したのだから、その姿をひと目見るまでは絶対に死ねない。そんな感じだった。
公演の中身などは二の次だった。本当に、はっきり言ってどうでもよかった。
生きた伝説ポール・マッカートニーと同じ空間、同じ時間、同じ音楽を共有できる。ただそれだけで十分だったのだから、おめでたいといえば、おめでたい話ではある。
つまり僕にとって、ライブはポールに会うための単なる口実にすぎなかったのだ。
実際ポールの声の調子はあまりよくなかったから、正直当時のライブCDを聴こうという気にはあまりなれない。今聴いても血が熱くなるのは、オープニングを飾った「フィギュア・オブ・エイト」ぐらいのものだ。
僕はこの「世紀の来日」を記録に残さねばと思っていた。冒頭の新聞広告もそのなかの一つである。あれから15年の月日が流れた。今となっては懐かしくもあり、貴重な記録でもある。その中の一部を今後もこのブログで紹介していくつもりだ。