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ポール・マッカートニー:偉大なる50年の軌跡  その6『英・米で10位内に入らなかったアルバム PART2』

1980年代以降も、ポールのアルバムは本国イギリスではそのほとんどがトップ10に入るようなチャート成績を残してきた。簡単にいえばイギリスでは大崩れがないのである。ライヴ・アルバムやクラシック系タイトルを除けば、1980年以降イギリスでトップ10に入れなかったアルバムは『バック・イン・ザ・USSR(63位)』『ラン・デヴィル・ラン(12位)』『ドライヴィング・レイン(46位)』のわずか3枚のみ。このうち『バック・イン・ザ・USSR』と『ラン・デヴィル・ラン』は基本的にカバーアルバムだから、オリジナル作品としては実質『ドライヴィング・レイン』1枚のみということになる。これは通常あまり話題に上ることがないのだが実に驚くべき記録である。例が適切かどうかはわからないが、日本でいえばさしずめ北島三郎や島倉千代子が今でもアルバムを出すたびにチャートの上位に顔を出すようなものだろう。この部分だけを切り取っても、ポールがいかに息の長い本物のアーティストであるかがわかろうかというものだ。

2012年2月に発売された最新アルバム『キス・オン・ザ・ボトム』がイギリスで最高位3位を記録したことも記憶に新しい。要するにポールは本国イギリスでは過去50年間もの長きに渡り、実に堅調なアルバム・セールスを続けてきたのである。

しかしながら、世界最大の音楽市場アメリカにおいては、1982年のアルバム『タッグ・オブ・ウォー』を最後に、突然火が消えたかのようにポールのアルバムはチャートの上位から姿を消してゆくようになる。この誠にもって不可思議な現象をリアルタイムで経験してきた僕は、未だ十分納得に足るだけの理由を見つけられずにいる。イギリスでのチャート成績を見てもわかる通り、ポールの作品は常にある一定のレベルを保ち続けてきたのである。

アメリカのビルボード誌において1970年代の10年間に実に6枚もの全米No.1アルバムを送り込んだポールが、1980年代には前述の『タッグ・オブ・ウォー』(全米1位)を最後にまったく見事なほどチャート上位から姿を消してしまうのである。以下に1982年の『タッグ・オブ・ウォー』以降のオリジナル・アルバムとチャート最高位を時系列に記す。

『パイプス・オブ・ピース』…15位(1983)
『ヤア!ブロードストリート』…21位(1984)
『プレス・トゥ・プレイ』…30位(1986)
『フラワーズ・イン・ザ・ダート』…21位(1989)
『オフ・ザ・グラウンド』…17位(1993)
『フレイミング・パイ』…2位(1997)
『ドライヴィング・レイン』…26位(2001)
『ケイオス・アンド・クリエーション~』…6位(2005)
『メモリー・オールモスト・フル』…3位(2007)

特に『パイプス・オブ・ピース』から『オフ・ザ・グラウンド』までに注目していただきたい。あまりにも不自然に思われないだろうか?『タッグ・オブ・ウォー』以降、ポールがアメリカのチャートで再びアルバムトップ10内に返り咲くまでに要した年月はなんと15年!(1997年『フレイミング・パイ』の2位まで)これはあまりにも長いブランクといえる。このアメリカでのチャート記録だけを見れば、ポールはこの時期完全なるスランプに陥っていたか、さもなくば意識的に第一線から退いていた、などと考える人がいてもけっして不思議ではないだろう。だが、イギリスではその同じ期間に2枚のアルバムが1位に輝き(『ブロード・ストリート』と『フラワーズ・イン・ザ・ダート』)、それ以外のアルバムもすべてがトップ10に入っているのである。しかも、1989年からは二度と行わないとさえ思われていたライヴ活動をもポールは本格的に再開し、愛妻リンダが亡くなる前後の期間を除いては一貫して精力的な活動を続けていたのだった。

だから繰り返しになってしまうが、なぜ突然ポールのアルバムがアメリカのチャートで不振にあえぐようになってしまったのかが僕には全く理解できないのである。それは当時も今も変わらない。

ただ素人なりに考えられる原因というのは2つある。1つはアメリカにおけるレコード会社の移籍がポールにとってマイナスに響いたのではないかということ。そしてもう1つは時代と共にチャートの集計方法が変更され、それがやはりポールに不利な結果をもたらしたのではないかということである。

まず1つめに関していえば、ポールは1979年の『バック・トゥ・ジ・エッグ』から1984年の『ヤア!ブロード・ストリート』までのアルバムをそれまでのキャピトルではなく、コロムビア・レコードから発売している(ただしこれはアメリカ、カナダだけに限った話である。それ以外の国では2007年にポールがEMIを離れるまでずっとEMI(パーロフォン)からレコードを発売していた)。

僕は業界の人間ではないので、あくまでも推測で物を言うことをお許し願いたいのだが、レコードの売り上げというのは、作品自体の良し悪しもさることながら、レコード会社によるプロモーション活動、宣伝活動というものがかなり大きなウエイトを占めているのではないかと理解している。そう考えると、たしかに『タッグ・オブ・ウォー』を例外として、ポールがアメリカのチャートで良績を残せなくなった時期と、コロムビア移籍の時期とが大体一致しているのは事実であるように思われる。

だが話はそこで終わらない。果たしてコロムビアでの成績不振に業を煮やしたのか、ポールはたった6年で再び古巣のキャピトルに戻ってくるのである。だが皮肉なことに結果は同じか、もっと悪いものだった。ポールはさらに『プレス・トゥ・プレイ』(30位)、『フラワーズ・イン・ザ・ダート』(21位)、『オフ・ザ・グラウンド』(17位)と3作連続でトップ10入りを逃してしまうのである。個人的には特に『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の最高位21位という成績が衝撃的でさえあった。このアルバムは本国イギリスで1位を獲得したのはもちろん、ポールが久しぶりに世界中で高い評価を受けたカムバック作品という位置付けがなされていたからである。その上、このアルバムはその発売直後に10数年ぶりのワールドツアー開始というおまけまでついていた。だが、それでもアルバムはチャートを駈け上がらなかったのである。

というわけで、レコード会社の移籍がはたしてアルバムチャート低迷の直接的原因になったのかというと、率直に言って僕はおそらくそれが直接の原因ではなかったと思う。ただその影響はけっして小さなものではなかったとは思うのだが…。(続く)

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